高森顕徹先生と親鸞会の50年
親鸞会結成以前「参詣者でたちまち一杯」(富山県)
Hさん(富山)
久作さんとの思い出
主人(久作さん)は、生前にこう言うとりました。
「阿弥陀仏のご念力で、高森顕徹先生の元に引きずり出されたと思わずにおれません。
私と妻は、どこかに正しい親鸞聖人の教えを説かれる方はないか、と探し求めていたのです。
昭和31年、母が初めて福光町の寺で高森先生のご説法をお聞きして帰るなり、『信前信後(弥陀に救われる前後)の水際を説かれるまことのお方だ』と叫びましてね。それまで、先代は皆、この家に有名な布教使を招待して法話会を開いていたのですが、それきり、高森先生以外は招待しなくなりました。
大体、話のレベルが違いすぎる。伏木の勝興寺の御満座にも行ったが、なぜあんなばかばかしい話を皆、まじめに聞いているのだろう、という心しか出てこなかった」
主人は、戦前は、それほど仏法を聞く気はなかったんです。青年団の報恩講にたまに参るくらい。「念仏さえ称えておれば助かる」という簡単な教えと思っていたようです。
日中戦争から帰ったあと、今度の戦争で南方のトラック島(西太平洋上)に行くことになっていました。昭和17年2月、新潟から出発、輸送船十三隻、駆逐艦、護衛艦が船団組んで。
それが、トラック島に着かない前に爆撃に遭って、たくさんの船が沈没した。主人も海に投げ出され、板切れに捕まって一晩中救助を待っていました。体力のない人から沈んでいったと言っていました。
テニアン島(西太平洋上・サイパン島の隣)に上がったあとも、後何時間かで空襲があるとかで、たくさんの兵隊が拳銃で自殺したそうです。
主人も、いよいよ最期か、となった時、一生懸命念仏申し上げようとしても、空念仏しか出ない。目の前が真っ暗で、体が硬くなって、相当、苦しかったようです。
命永らえて帰国したあとは、「仏法聞くための命」と言うて、本当の救いを求めて、あちこちで聞法していました。自宅に布教使を招待したこともありました。
そんな矢先、姑が高森顕徹先生を紹介してくれたんです。
「噫、弘誓の強縁は、多生にももう、あいがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
もしまた、このたび疑網に覆蔽せられなば、かえりてまた、曠劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ(『教行信証』)
「ああ……なんたる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、求めつづけてきた歓喜の生命を得ることができた。これはまったく、弥陀の強いお力によってであった。深く感謝せずにおれない。もし今生も、無明の闇の晴れぬままで終わっていたら、未来永遠、浮かぶことはなかったであろう。なんとか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、知らせねばならぬ。こんな広大無辺な世界のあることを」
と、親鸞聖人のお言葉を出され、この世で救う阿弥陀仏の本願を熱一杯に説かれました。平生業成(生きている平生に、人生の大事業が完成する)、現生不退(現在世で正定聚不退転になれるということで、この世で完全な救いにあずかるということ)、どれもこれも今まで、聞いたことありませんでした。 間もなく、「高森先生でなけにゃあかん」と言うようになりました。
昭和32年に、高森先生を自宅に招待すると、家はたちまち参詣者でいっぱいに。ポスターもチラシもないので、村中、太鼓をたたいて回って知らせるのです。寺の法事などより、はるかに多い人が来られ、家中の戸を外しても入り切らない。増築しても追いつきませんでした。
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