高森顕徹先生と親鸞会の50年
親鸞会結成以前・結核診療所での説法(富山県5)
Mさん(富山)
結核診療所
昭和26年1月17日、結核に侵された私は、富山県城端町の「北陸荘」という結核療養所へ入りました。
当時、結核には有効な治療法がありませんでした。ストレプトマイシンという特効薬があるにはあったが、米国製の高価な品でした。一本一万円、今なら、30万から50万くらいに当たるでしょうか。それを36本打つと、大体治ったそうですが、そんなに打てる人など、ほとんどなかった。だから、北陸荘に入っただけで、助からないと思われていたのです。
600人ほど収容されていた療養所で、2日か3日に一人は、死んでいたと思います。
深松顧問が書道教授
結核は感染するので、外部の人は、療養所へ近寄ろうとしません。家族も遠ざかり、身内が亡くなった時でさえ部屋に入ろうとしない場合が多かった。そんな時は、亡くなった人の身の回りの片付けを、私らがやったんです。北陸荘は、外部から隔離された空間だった。
感染はしていても元気な人も多かったので、患者たちは療養所内に独自のサークルを作って活動していました。詩、短歌、書道など、いろいろありましたね。
私は、書道会に入りました。
そこへ教えに来ておられたのが、亡くなられた深松先生(親鸞会の顧問)だったのです。
書道の会は、月に一、二回、夜八時から九時の一時間ほどだったと思います。
会のある晩は、北陸荘の一室に泊まられたので、私もいろいろ、お話しさせてもらいました。
「先生、(結核療養所に来るのは)嫌ないか?」
と尋ねると、
「なるものは、なる」
と笑っておられました。
「先生、うつるで」
と言っても、
「そんなもん、かまわん」
と、全然気にされなかった。
仏法にも詳しく、阿弥陀仏に救い摂られた世界があることも教えてくださいました。
結核になって、何が生死を解決してくれる教えなのか、探していた時でした。深松先生が日ごろ、聴聞されている高森顕徹先生のお話をぜひ聞きたいと思い、療養所での説法を聞かせていただくようになったのです。
喀血し、医師に見放され
療養所には、仏教のサークル(勉強会)もありました。高森顕徹先生は、この会が招待していたのです。昭和22、3年ごろから、布教に来ておられたように聞いています。
高森先生は年に何度も、お越しくださり、当日には必ず、
「今晩、高森顕徹先生の講話があります」
と、所内に放送が流されたものです。先生は、学生服の上に黒い教誨服を着ておられました。最初は、こんな若いボンボン、何をしゃべるのかな、と思っていました。
いざ聞いてみると、普通の坊さんと全く違う。ほかの坊さんは、社会常識的な話か、念仏を称えてさえいれば、いつとはなしに救われているといった、雲をつかむような話しかしない。
高森先生は、獲信(弥陀に救われること)の道を説いてくださったのです。人間の生まれてきた目的をハッキリ教えてくださった。
「念仏称えておっても今、死んだらどうなるのか。一息切れたら後生、吐いた息が吸えなくなったら後生。今、信心決定させていただくことが大事です」
と
「呼吸の頃すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すことなかれ」(教行信証)
「 一息つがざれば次の生。永久にもどらぬ人生だ。ただ今、人生の目的を達成しなければ、いつするというのか。いつできるのか。永遠のチャンスは今しかない。刻々と迫る無常を凝視して、決して後悔をのこしてはいけません」 と、親鸞聖人のお言葉を出して、話されました。それはもう、激しかった。
そして
如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし、多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす(『口伝鈔』)
「弥陀の悲願は徹底しているから、一刹那に臨終の迫っている、最悪の人が眼目だ。もしあと一秒しか命のない人に、三秒かかるようでは救えない。一念の救いこそが、弥陀の本願(誓願)の主眼であり、本領だ」 と、覚如上人のお言葉も出されて、現在ただ今の弥陀の救いを私たちに、繰り返し、まき返し説かれました。
会場は、6畳か8畳ほどの和室を2間続けたものでした。仏壇があり、縁側には霊柩車が横付けできるようになっていた。患者が死んだ時、仮葬儀をする場所だったのです。2日に一度ほど葬儀が勤められる所でご説法くださった。3、40人が集まって、皆、真剣に聞いていました。
私は、右肺が結核に侵されていたのですが、そのうち、左肺にもうつって血を吐き、医者が見放すほど悪かった時期がありました。
しかし、弥陀の本願を知らされ、ここに生きる道があると分かったら、食欲がわいて体力がついた。肺が真っ白になって、もう助からないと思っていたのに、いつの間にか治ってしまったんです。
医者も驚いていました。そのおかげで今、生きている。先生に会わんだら、死んどった……。大変なご恩があるんです。
最近、縁あって、また高森先生のご法話をビデオで聴聞させてもらっていますが、先生は当時とまったく同じお話をなさってます。
50年も前だから、ビデオでお姿を拝見する以前に、街で見掛けたとしても分からなかったでしょうが、ご説法の内容は寸分変わらない。後生の一大事と一念の弥陀の救い、これ一つを説いてくださっています。ホントにかあ等内。これがまことだからです。
わし、近所のご坊はんに言うんですよ、
「最近の寺は、地獄極楽の話を何でしないのか。道徳教育になってしまっとる。生死を離るるための話が欠落している。なぜ生きるかが抜けては、仏教じゃない。仏法聞くために生まれてきたのに」
とね。寺に若い人が寄りつかないのは、要が抜けてしまっているから。聞く気になれなくて当然ですね。
同じ町内の人にも、仏法の要を説かれる高森先生のお話を聞くよう、勧めていきたいと思います。本物の仏教、聞いてください。
高森顕徹先生と結核患者
火花散る説法
結核療養所の仏教会会誌には、高森先生と患者との、鬼気迫るやり取りが、記録されていた。
ここに抜粋しよう。
(T講師とあるのは、高森顕徹先生のこと)
私が大さんを初めて見たのは、昭和27年の12月ごろだったと記憶している。その日は仏教講話が終わってから会議室でT講師を囲み、仏教座談会をやっている最中であった。
一人のやせ細った30年配の男がスーッと入ってきて我々の後ろから、
「先生、本日はご苦労さんです」
と、T講師に挨拶した。
T講師は、
「大さん、体の具合はいかがですか」
と言われた。と同時に、実に我々をびっくりさせた鋭い言葉が大さんの唇を突いて出た。
「体なんかどうなってもいいんです。後生の一大事が分かりさえすればいい。その後生が分からないんだ。
先生はおれの背中に無常の嵐と罪悪深重の業火が燃え盛っていると言われるが、おれはその恐怖をつめのあかほども感ずることはできない。私は絶対に救われない人間です」
講師は、
「大さん、あなたの命は明日とも知れないはかないもの、一息一息を最後と思いなさい。一度は必ず吸い込んだ途端に呼吸の止まる時は来る。それは明日のことではない。現在に迫っているのが、分からんのか!」。
バリバリッと歯を食いしばる音が、緊迫した狭い会議室の空気を切り裂いた次の瞬間、ポタポタと畳に物をこぼす音がするので、振り返って見ると、正座した両の膝頭をしっかとつかみ、腕を突っ張り、滂沱と涙を流している大さんであった。
小刻みに震える両肩の痛々しさ。涙あふるる目をキッと据えて、さらに迫りゆく。
「先生、罪悪とは何か?地獄へ行かねばならんような悪いことをした覚えはない。だが、後生が気になる。おれは一度は必ず死ぬ。それを信ずることができる。しかし、明日死ぬとは思わない。まだ死なない。永久に死なない気もするが、やはり死ぬ時が来ると思う。死を思う時、お先真っ暗だ。南無阿弥陀仏と称えても、この不安な気持ちはなくならぬ。永久に闇のかなたへ迷うていくと思えば、居ても立ってもいられない」
生死を懸けた大格闘
講師は、
「大さん、あなたは今晩死ぬと思うか?」。
「否」
「明日は?」
「否」
「明後日は?」
「否」
「一週間後は?」
「否」
「一ヵ年後は?」
「否」
「三年後は?」
「否」
「五年後は?」
「それは分からない」
「それでは五年後の今日になって、今と同じ質問をしたとしたら、あなたはどう返事をするか?」
大さんはちょっと考えていたが、
「今と同じ返事をするでしょう」。
「そうだ、五十年後であっても、八十年後であっても、今死ぬと思いたくないために、または、まだまだ死なないという迷いの心があるために、いつまでたっても同じ返答しかできない。人間はいつまでも死にたくないという欲望を持っている。しかし、死は現在にある。生死一体である。
罪悪観にしてみても、我々の心のうちの動きや感情を分析し、過去を振り返ってみれば、果たして罪を犯してきていないか。憎いやつ、嫌いなやつ、あの畜生が、あやつがいなければ、死ねばいいがと、心のうちで人殺しをしている。それは行動に出なかっただけのことである。この心は毎日炎のように盛んなのだ。そのような心に、そのような己に気づかぬ者は、偽善の仮面をかぶったうぬぼれ者である。
そうした根性をもって今死ぬと思え!そんなのんきなことを言っておれる現在でもないはずだ。
大さん、その涙は何だ。偽善の涙か。自己欺瞞のものか、こけおどしの涙か。そんな涙ぐらいで私は驚かない。その涙こそ、弥陀の本願に打ちつけている自力の五寸釘でなくて何だろう、キョウ慢者めが!
このわしが救うとでも思っているのか?救ってくださるのが阿弥陀さまじゃ、兆載永劫の間、立ちずくめで招喚なされている阿弥陀さまに背を向けおって!」
求める者も求める者ならば、導く者の慈悲の叱責もまた厳しい。求道とはこんなに激しいものでなければいけないのだろうか。講師と大さん、大さんと阿弥陀さまの激しい火花を散らしての一騎打ちなのだ。竜を呼ぶか、雲を呼ぶか、生死懸けた大格闘でもある。
本願の胸に打ち込まれている大さんの自力の五寸釘を抜き取ろうとする阿弥陀さまと、自力を抜こうとしながらかえって本願深く自力を打ち込んでいく大さんとの、壮絶極まる死闘であった。
「それでは何もかも自力になるではないか。たのむことも自力なら、一切をまかせようと思うことも自力。他力とは、他力とは、どこからどこまでが他力なのだ」
大さんがうなった。
疑心の闇に泣く
大さんは禅宗の寺の養子として籍を置いていた。病状が悪化してくるに従って真剣に自己の救いを仏法を通じて観念していこうと努力した。
仏典を次々と読破し、観念的宗教観に身を固めつつある時に、T講師と真正面からぶつかったのである。
大さんは大さんなりに相当論陣を展開したらしかったが、T講師の舌端火を吐く"現在の救済"に対しては、ついに反論する言を知らず、絶対他力信仰の前にこうべを垂れた。
それから数日後、深夜に翻然として歓喜の叫びを上げ、弥陀の尊号、南無阿弥陀仏を称えたのである。
噫々、しかし悲しいかな、歓喜の踊躍もやがて、もろくも壊れ去ろうとは。一日一日と薄らいでいく歓喜の信仰。これではいけないと焦れども、喜んでみようとしても喜びはわかず、ぐいぐいと元の疑心暗闇の世界に引きずり込まれてしまって、歓喜を失い、食いつかんばかりの形相でT講師に真向かい、今、ここで泣いている大さんなのである。
「信心決定」ということに大さんは最後まで一線を画そうとしていた。
「今のおれには仏教知識も学問も、少しの力にもなってくれない」
そして、知識の仮面をかなぐり捨てて一向専心。信の一字に徹しようともがきつつ、
「難信易行」の法だと嘆くのであった。
忘られぬ夢
それから2、3年後の7月の晩、私は不思議な夢を見た。私はその人の納棺に立ち会っていた。ところが死人が口をきいた。
「分かったぞーう!そのままだったぞよ」
二度繰り返して呼びかけたのだった。
翌朝窓に向かってこの夢をたどり、考え込んでいた。そこへ大さんが亡くなったとの知らせが入った。私は大さんのところへ飛んでいった。大さんの手を取り、
「ゆうべは夢に来てくれてありがとう」。
求道の鬼と化し、
「おれは後生の一大事を解決するためには、真実信心を獲るためには、命も何も要らぬ、ただ、そのためにこの世に生まれて来た。それは一大義務であるからだ」
と確信に満ちた言葉は、惰弱な私の心魂を揺さぶり、求道の灯を点じてくれたのだった。
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