高森顕徹先生と親鸞会の50年

親鸞会結成以前「歩いての布教」(富山県 その6)

Tさん(富山)

昭和30年の初め

嫁ぎ先の両親が、高森顕徹先生のお話をよく聞いており、私も聴聞するよう勧められました。しかし、すぐには聞こうとしませんでした。

近くの寺で一週間のご説法をしてくださる時は、滋賀県や、富山県内の人でも、わが家に泊まって聴聞を重ねることがよくありました。皆さんの食事や宿泊の用意は当然、嫁である私の仕事です。

「他人の家に泊まってまで仏法を聞くのか。法道楽とはこのことだ」
と、出てくるのは愚痴ばかり。

しかし、滋賀から若い人が、泊まり込みで聞きに来ているのを見ると、
「あんなに一生懸命になる仏法とは、どんな教えだろう」
という疑問も起きてきます。

聞法を始めたきっかけは、27歳の時。高校教師だった夫が、生徒を率いて立山登山をしている最中に腹膜炎を起こし、急死したのです。30歳のあっけない最期に、「死んだらどうなるのか。今度は自分の番だ」と思うと、不安でなりません。

高森先生は当時、私の家から近い津沢(小矢部市)や砺波市内の寺などで、頻繁にご説法なさってましたので、聞かせていただこうと思ったのです。
初めて参詣した日のことは、よく覚えています。寺にいっぱいの人で、私は玄関の踏み台に座って聞いてました。「五重の義」の説法でした。

私と同年代の若い先生が、蓮如上人の御文章を黒板に書かれました。

「これによりて 五重の義 を立てたり。一には宿善、二には善知識、三には光明、四には信心、五には名号、この 五重の義 成就せずは、往生は叶うべからずと見えたり。 」(御文章2帖目11通)

渾身の力で、
「五つのものがそろわないと、浄土往生できない」
と説かれる。「みんな死んだら極楽へいけると思っているのに、この先生は何と厳しいことを言われるのだろう」と思いました。しかし、親鸞聖人、蓮如上人の教えられたまんまでした。

大変優しい先生でもありました。夫を亡くした嫁が来ていると聞かれたのでしょう。数日後のご説法の休み時間に、高森先生が私に、ガリ版刷りの『会報』を束ねて持ってきてくださり、
「いつも、参詣された方の宿泊で、ご迷惑をおかけしています。これからも、よく聞いてください」
と言われました。心温まるお言葉に恐縮し、一座でも多く、一分でも長く、高森先生のおそばにいたい気持ちになりました。

お礼状は、直ちに

それからは、家事を急いで済ませ、夜に自転車で、よく聴聞に出掛けました。一時間以上も走って、高岡市内までも行きました。

嫁として、田んぼや畑の仕事は手抜きできません。月明かりでダイコンを洗ってから行ったこともあります。
雨風の激しい夜も、「後生の一大事には代えられない」と必死でした。それほど先生は、聞法姿勢を厳しく教えてくださったのです。

高森顕徹先生ご自身が、当時は歩いて布教されていました。この家から見える、あの田んぼ道を、重いカバンと拡声器を持たれて、歩いてこられたのです。

説法を終えて、バス停におられた時でした。当時のバスは、時間どおりには来ません。私が拡声器を持って、バスを待ちながらご一緒していると、いつも聴聞している近所のおじいさんが寄ってきて、
「先生、スイカを持ってかっしゃい」
と、お渡しするのです。拡声器とカバンだけでも大変なのに、そこへスイカ!「ありゃー」と顔をしかめた私の横で、先生は丁重に受け取られ、おじいさんが喜んで帰っていくと、
「あの人、何という名前かね?」
と尋ねられました。お礼状を書かれるためです。
どんな人にも、温かく接してくださいましたね。

床の間に座って聴聞

私の家でもよく、ご説法や座談会をしてくだされた。人生で、これほどうれしかったことはありません。

食事や風呂の準備におおわらわでしたが、先生は、
「台所にいる人もここに来ないと、話ができん」
と、私を気遣ってくださいました。
先生の控室の、掘りごたつの炭に火がついていなかったこともあり、思い出すと恥ずかしいばかりです。

蚊帳をつり、窓を開けて休んでいただいた次の朝には、
「静かでよく眠れた」
と言ってくださいました。
また、当時は何でも相談させてもらったものです。
「娘に縁談が来たのですが、どう思われますか」
というようなことも。

 

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