高森顕徹先生と親鸞会の50年
親鸞会結成以前(滋賀県 その1)
Tさん(滋賀)
学生服の高森顕徹先生
滋賀県の下之郷という所に、Yさんという方がおられました。戦後まもないころ、Yさんが京都の本願寺へ行かれた時、大勢の人が集まっている中で、一人の学生さんがビール箱の上に乗られ、腕には「死線を越えて」と、小指を切った血で書かれた腕章を着けて、一生懸命にお話しくださいました。
「親鸞聖人のみ教えは、現在ただいま助けてくだされる阿弥陀仏の本願である」
と高森顕徹先生は、親鸞聖人の教えを手に汗握ってお話しくだされていたとのことです。
Yさんが、今まで聞いたことがない素晴らしいお話でしたので、先生に、
「一度来ていただきたい」
とお願いしたのが、滋賀県への最初のご縁です。
そのころ、私は、この世にあて力になるものは一つもないと知り、どこかに真実の教えを説いておられる先生がおられないかと、寂しい心を持ちながら探しておりました。
今も忘れもしませんが、
「今度、多賀の敏満寺のお寺に、すごいお話をしてくだされる方が来られるから、お参りに行かないか」
と誘ってくれましたので、10人余りの同行とともに、お参りしました。
最初の日は、お昼からでした。
「先生は、どんな方だろうか」
と首を長くして待っておりますと、若い学生さんがズック靴を履いて、頭には角帽をかぶり、手にはカバンを提げて、おいでになりました。
「この先生、若いのに、お説教されるのかしら」
と思いながら、時間の来るのを待っていました。
一時半になったので、勤行が始まり、いよいよご説法になりました。
まず、讃題が始まりました。
「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
と仰せられると、先生の全身から、何とも言い表すことのできない尊いものが、私の胸に伝わってきました。
2日間のお話は、「名号・信心・念仏」のお話でした。親鸞聖人の体験された信前・信後の水際(阿弥陀仏に救われる前と後との変わりめ)を、詳しくお話しくださいました。
「金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲」(教行信証)
「南無阿弥陀仏をとなうれば
この世の利益きわもなし
流転輪廻のつみきえて
定業中夭のぞこりぬ 」
(現世利益和讃)
阿弥陀仏に救われたら、この世から際もない幸福の身になるのだと、親鸞聖人のお言葉を出されて、当時のご説法も、現在と少しも変わらぬ大慈悲心いっぱいのお声とあふれる熱意で、親鸞聖人さまの教えを叫ばれて、疲れもいとわれず、わが身忘れてされました。この世で、そんなすごい幸せになれるんか。信心一つで、死ねば必ず浄土で仏になれる。へぇー。私たち一同は、ただ吸い込まれて聴き入っておりました。
時間を惜しまれた先生は、
「皆さん、用事のある人は自由にしてください」
と言われ、2時より6時までのぶっ通しのお話でした。
「この先生こそ、本当に仏法を伝えられる先生だ」
といっぺんに思いました。
2日間のご法座も終わり、同行一同は、とてもほかでは聞かせていただけないお話なので、毎月来てくださるようお願いすることにまとまり、その旨を先生にお伝えしました。
その時から、先生にお世話になり、ご苦労をおかけしております。
――高森先生との初めてのご縁について、お伺いします。
私は、友達から誘われました。私ら、前から一緒にお参りしている友達が、十人ほどありましたんや。みんな、先生が来られる多賀(滋賀県多賀町)の敏満寺という所へ行きました。
それまで聴聞していた布教使は、35歳以上の人ばかり。高森先生がおいでになる時に、かわいらしい学生さんで、よもや、あんなご説法をされるとは思いませんでした。
浄土真宗の三本柱「名号と信心と念仏」のお話を。そりゃあもう、ほんまにすごかったです。お聖教の御文を一つ一つ示されてね。
米原から近江電車に乗り、多賀で降りて、歩いて敏満寺まで行ったんです。先生も、その時分は歩かれてばかり。
来る人みんな、
「素晴らしいお話や、お若いのに」「親鸞さまがのり移っとるようだ」
と言うとりました。
――高森先生は学生服を着ておられたのですね。
そうです。ズック靴履かれて。23歳ぐらいで。
いろんな人の話を聞いとりました。そやけど、十劫安心やら念仏正因やら、異安心だらけでね。自分の心に納得がいかんかった。念仏称えて感謝の心でいたら、死んだら極楽へ連れていってもらえるという説教ばかり。
自分の罪悪を見たら、ほんまにこれで極楽往けるんか、とやっぱり疑いの心が出てくる。
『御文章』には、
「ツユチリほども疑いがあってはいかん」※
といっぱい書いてありますやろ。それで、善知識(正しい仏教の先生)を探していました。
それからは、高森顕徹先生のお話ばっかり、お参りさせてもらっています。
※「この心の露塵程も疑なければ、必ず必ず極楽へ参りて美しき仏とは成るべきなり。」(御文章)
――そのころの、高森先生の声はどうでしたか?
そりゃもう、大きかったですなあ。甲高い、貫くようなお声でしたなあ。外までビンビン聞こえるくらいでしたよ。
――その当時から、教誨服で?
着ておられました。
――それまでに、黒板と指示棒を使って説法する人はあったでしょうか。
あまりなかったと思います。
黒板に書いていただくと、よう分かる。
――その他、高森顕徹先生のご様子をお願いします。
到着されて、一服するやらせんやらに、すぐ皆さんの前に出てこられて、仏法の話。皆さんの後生を心配してくださっていたのがよう分かります。
「後生をどう思っているか」と、いつも尋ねられました。
お昼もご飯を上がっておられるのに、みんなが行って質問したり。食べられる間もなく、先生は大変やったと思います。阿弥陀如来のご恩の尊さ、深さ、広さ、何も知らん私らに伝えようと真剣でした。後生の一大事は、阿弥陀仏のお力によるしかないんですからね。
「この(阿弥陀)如来を一筋にたのみたてまつらずば、末代の凡夫、極楽に往生する道、二も三も、有るべからざるものなり。」(御文章)
「みなみな心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみたてまつるべし。その他には何れの法を信ずというとも、後生の助かるという事、ゆめゆめあるべからず。」(御文章)
失礼なことやったけども、先生も一生懸命、こっちも一生懸命で、礼儀も何もなかった。こちらもその気にさせられたんですわ。
夏は冷房もなく、汗をかかれて、申し訳なかった。8月の夏休みの時やったかいな。
その日にすぐに、みんなで先生のお座敷に行って、また来ていただきたいとお願いしましたんや。今度また、いつご縁があるか分かりませんやろ。
参詣者で泊まる人が20人くらいになったこともあります。みんなごろ寝で。説法される家に泊まってもらって、先生は別の家にお泊まりいただいて。
たくさんの人が手伝ってくれました。役割分担もありましたし。みんな、心が一つやったから。
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