高森顕徹先生と親鸞会の50年
岐阜県編(昭和38年~53年)1
岐阜親鸞会会員の聞法心が会館を建立した

(親鸞会岐阜会館正面より撮影)
親鸞会結成以来50年、高森顕徹先生は、「本願成就文」の「聞其名号」を根拠に、「仏法は聴聞に極まる」ことを、重ねて説法されている。
※本願成就文――阿弥陀仏の本願を釈迦が解説されたもの。
岐阜県でも、昭和30年代末から真剣に聞法する親鸞会会員が続々と現れ、53年、岐阜会館が誕生した。それは、「聞法道場を我らの手で」という同志の情熱が形となって現れた、最新鋭の会館だった。
岐阜県の法灯は、親鸞会結成の功労者である故・菊池頼さんが、昭和37年、富山から移住したことに始まる。
当時、高森顕徹先生のご法話の会場は、まだ寺が主流であった。そのため、菊池さんも覚願寺を会場に選び、高森顕徹先生を毎月招待した。ここで仏縁を結んだのが、後に岐阜会館建立に大きな役割を果たした故・Tさんである。
覚願寺での法話は、やがてほかの寺に変更になり、さらに他宗の寺へと移っていった。昭和40年代には年5、6回、高森先生は『正信偈』講話をこの他宗の寺でなされた。後に岐阜県各支部の幹部となる人たちが、続々とこの寺で仏縁を結んだ。
高森顕徹先生が早くから布教なされた滋賀県では、昭和41年、すでに滋賀会館が竣工。以後、法輪は広がりつつあった。
滋賀会館の建設工事を請け負ったのは、Tさんが経営するT建設だった。落成を寿ぐ一方で、岐阜支部副支部長の任にあったTさんは、岐阜親鸞会の未来を思い描いたことだろう。
"岐阜の発展には、拠点が必要だ"。Tさんの出した結論は、3階建てで建設を計画していた自社ビルを1階分増やし、4階をそっくり聞法の道場として親鸞会に提供することだった。
昭和44年、T建設ビルが完成。早速、支部の会合や法話会場として使用され、高森顕徹先生のご法話も開催された。翌々年1月から恒例となった岐阜支部報恩講は、親鸞会の重要な行事として位置づけられるようになった。
このころ、自宅で高森先生の法話を開催する親鸞会会員も増えている。6、7名が年1、2回、家庭法話を開いた。
しかし、どこも2、3年で、増加する参詣者が入り切れなくなった。
「本当の親鸞聖人の教えを聞かせてもらいたい」
この聞法のエネルギーが、やがて会館建立の力となっていくのである。
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