高森顕徹先生と親鸞会の50年
岐阜県編(昭和38年~53年)2
新築して先生をご招待
猛暑の中、150人が聞法
Oさん
私は、10人きょうだいの末っ子として生まれました。父が大酒飲みで、兄や姉が結婚して家を出たあとは、家計を支えるために、働きに出ました。土木作業の仕事が多かったです。
21歳ごろ、知り合った庭師に、「仕事を覚えないか」と誘われてついていったのが、造園業との出会いでした。敗戦間もない時期、庭を造る人はまだなく、樹木の手入れが主で、しかも仕事があるのは夏だけ。冬場は、相変わらず土木作業や、1反幾らで「田起こし」をやりました。何でもやらないと生きていけませんでした。
何年かして、仕事で無理をして腰を痛め、岐阜市鶉の指圧師の所へよく行きました。そこのばあさんが、地元では有名な妙好人でした。道で擦れ違った人を引き留めて、1、2時間でも仏法を話すので、姿が見えると、道を横切って避ける人があったほどです。私が指圧の順番を待っている時も、
「高森先生の話は、親鸞聖人の教えそのまんま。間違いないから、あんたも聞け」
としきりに勧めるのです。
そんなある日、家内に誘われて、高森顕徹先生のご法話に一緒に参詣しました。家内も、すごい先生がいらっしゃると聞いて、寺でご縁を結んでいたのです。
高森先生の説法は、親鸞聖人や蓮如上人のお言葉を根拠に、一つ一つ分かりやすく納得できるものでした。
聖人の教えが、人生にとっていかに大事か、よく分かりました。仏さまの教えが分かることは、本当に有り難いことです。
昭和47年7月、家内がまず親鸞会会員になり、自宅に高森顕徹先生をご招待しました。その時はまだ、茅葺き屋根の古い家でした。結婚10年目のいい機会なので、積み立てしていたお金で家を新築、翌年は、真新しい家に先生を招待できて、大変光栄でした。
私も親鸞会会員になって迎えた2回目の自宅法話は、2日間の開催でした。先生はわが家に宿泊され、そのほかにも5、6人が泊まりました。
夜、先生は離れでお休みになったかなと思っていたら、仏間に戻って、5、6人の人たちと座談会を始められたので、びっくりしました。
ご法話の宣伝はポスターが主体でした。ベニヤ板で作った立て看板にポスターを張りつけて、田んぼに立てたり、近所の家の壁に張ったりしました。30枚ぐらいと思います。あとは口コミですね。
この辺りでは一般に"四八"といって、仏間を含めて4つの8畳間が接する間取りが一般的です。ふすまを取り払えば、約30畳の法話会場になります。
普段そこに置いてあるタンスや棚をすべて移動して、掃除するのは大変でした。親戚中に頼んで手伝ってもらう人もあったと聞きます。ウチの場合は、講師の方に前日から手伝っていただきました。
氷柱も焼け石に水
参詣者は、最初はそれほどでもなかったように思うんですが、地元だけでなく、北陸、滋賀、大阪などからも参詣するようになり、150人は見えたでしょうか。縁側から玄関、廊下もみんないっぱい、3回目には入り切れなくなりました。どこの家でも同じで、会員と、
「もう在家では難しいだろう」
と話し合い、公民館を借りられないか探しました。
探すといっても、自分の村の近郷を自転車で回るのですから、最初から選択肢が限られていました。そのうえ、村の行事以外には貸さないという公民館も多く、なかなか会場が見つかりません。
やっと見つけたのが、市橋というところの公民館。私がご招待できるのは、毎年7月と決まっていました。暑い盛りですが、冷房はありません。何人か、自分の家から扇風機を持ち寄りましたが、それでも暑くてたまらない。これでは説法される高森先生に申し訳ないと思ったある講師から、
「氷を買ってきてもらえませんか」
と頼まれました。自家用車なんて普及していない時代です。例によって自転車で大きな氷を買ってきました。それをタライに立てて、扇風機を当て、先生に少しでも涼しい風を届けようとしました。
せっかく高森顕徹先生に富山から来ていただくのだから、もっとちゃんとした会場で開催したいと、Tさんは思っていたのでしょう。
「会館が欲しいなぁ。建てようかなぁ」
と、顔を合わせるたびに言っておられました。条件さえ整えば、すぐにでも建てるような口ぶりでした。
「でも、どうやってやろうなぁ」
と、私は答えたものです。
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