高森顕徹先生と親鸞会の50年
岐阜県編(昭和38年~53年)4
会館待望の声高まり
やがて大きな流れに
昭和40年代半ばは、親鸞会が新たな本部会館建立に向かって胎動を始めた時期でもあった。滋賀会館2階を改装(46年)、新本部の土地(旧・予定地)を取得(47年)、前田町から芳野へ本部会館が移転(49年)と、増改築・移転が目まぐるしく展開した。
毎年1月のT建設ビルでの岐阜支部報恩講は、昭和49年が最後となる。60畳の本堂に入り切れず、階段の下り口まで参詣者があふれ、だれもが限界を感じた。
この報恩講に先だち、Tさんは、自社ビルの親鸞会事務所に新しいお仏壇を求めた。
「2年ほど前から、立派なお仏壇が欲しいと思っていました。ついに実現できて、うれしく思います。将来、岐阜に親鸞会館の建てられた暁は、そこの仏壇としていただきたい。このことは、妻や息子も了解済みですので、たとえ私が死んでも変わりません」
このように語ったTさんの胸中には、岐阜会館の青写真が描かれていたのかもしれない。会館建立の4年前のことである。
他力の信を求め、遠方からも参詣する親鸞会会員が増加し、岐阜での高森顕徹先生ご法話会場の混雑はピークを迎えていた昭和50年。1月恒例の岐阜支部報恩講は、T建設ビルでの開催を断念し、岐阜駅前の濃飛ビル・大ホールへと移った。当時としては、最大規模の会場であった。
おかげで混雑もなく、無事、勤修されたが、大きな会場だけに、経費も跳ね上がった。
5月上旬の岐阜幹部会合で、参詣者の激増に対応し切れない現状をどう打開するか、話し合われた。が、妙案は出ない。
その時、岐阜支部地区部長だったIさんが、声を上げた。
「会館が必要です。土地は私が提供しましょう」
岐阜市南部・中鶉にある農地の喜捨を申し出たのである。
会合を覆っていた重い空気が一瞬に晴れ、集まっていた幹部一同の顔に光がさした。
「これで、会館が建つぞ!」
「やろう、やろう!」
実は、親鸞聖人の教えに出遇い、感激していたIさんは、父親から譲り受けた土地の喜捨を真剣に考え、家族の同意も得ていたのである。
早速、Tさんのもと、建設実行委員会が設置された。親鸞会会員から10名ほどが、委員として選ばれ、図面の検討と建設費の見積もりを始める。
"私たちが聞法する道場。会館建立は、自分たちの手で"
"弥陀の呼び声、ここで聞かせていただくぞ"
という機運が、岐阜親鸞会会員の胸から胸へと伝わり、大事業参加に皆の心が1つになった。
* *
そしてついに、昭和53年2月4、5日、晴れの浄土真宗親鸞会岐阜会館落慶を迎えたのである。
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