高森顕徹先生と親鸞会の50年
まえがき
親鸞会は、平成20年で結成50周年を迎えます。
このページでは、親鸞会黎明期の証言と題して、親鸞会結成から、昭和50年頃までの流れを掲載します。
最初は、親鸞会結成以前の、高森顕徹先生のご布教の様子を、当時、縁のあった方の証言から、ふりかえってみます。
黎明期の証言目次
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親鸞会結成以前(富山県編)
深夜まで続く座談会
救われたうれしさに、母は毎月、高森顕徹先生をわが家へご招待するようになりました。私は小学4年生。9つ違いの先生を私は、兄のように慕っていました。
横と縦の線をかかれて
高森顕徹先生は、7時ごろから夜の勤行、初夜が終わったのが9時過ぎ。それから座談会が始まりました。終わると、11時か12時でした。
参詣者でたちまち一杯
昭和32年に、高森顕徹先生を自宅に招待すると、家はたちまち参詣者でいっぱいに。ポスターもチラシもないので、村中、太鼓をたたいて回って知らせるのです。
坊主にマコトとニセがある
弥陀の救いをハッキリ説き切られる説法を半座聞いて、ビックリ。休憩時間に控室へ走った。そしたら、高森先生、待っておられたんやね。
結核診療所での高森顕徹先生の説法
結核になって、何が生死を解決してくれる教えなのか、探していた時でした。高森顕徹先生のお話をぜひ聞きたいと思い、療養所での説法をお願いしたのです。
親鸞会結成以前(石川県編)
ハッキリ答える布教使がいない
高森顕徹先生は24歳、教誨服のスラッとしたお姿で、『真宗聖典』を手に、黒板を駆使してお話しくださいました。こんなスマートな説法は初めてだと感じたのを覚えています。
親鸞会結成以前(滋賀県編)
学生服の高森顕徹先生
「この先生、若いのに、お説教されるのかしら」と思いながら、時間の来るのを待っていました。
のどから血を出されて
朝・昼の説法が終わるとすぐ、座談会が始まりました。あまりの熱意に、帰る時間を忘れて聞かれる人も多くありました。
昭和30年の夏 滋賀県米原の寺でのこと
「先生もお若いから、バイクがお好きなんやなあ」と思っていました。でも、ご自分が楽しむためではなく、有縁の人を迎えに行っておられたのです。
お酒もたばこも飲まん若い先生と、約束してきたでー
高森顕徹先生が説法されると、先生のお座敷に皆さんが伺って「次は、私の家へ来てください」と申し上げるのです。先生は、一人一人と約束しておられました。
善き友がなければ独りで
駅のホームで列車を待っておられる間も、私は先生にぐっと近づいて、お話しさせていただきました。
仏法聞かんならん
ご説法のお声は大きくて、拡声器がなくても、一町(3000坪)くらいは響きました。
参詣者であふれた寺
大雪のことはたびたびありましたが、雪の中を高森顕徹先生は、長靴を履かれて、在家や寺へご説法に回られ、難儀されたことと思います。
親鸞会結成(前田町の会館)
親鸞会初の会館が落成
建築工事は、突貫工事でした。壁が塗り立てで、ベタベタでしたので、「気ぃつけてくれ」と言われました。そんな中の落慶式でした。
昭和38年の豪雪
雪が深くて、村の交通が全部麻痺した時がありました。それでも高森先生は福野駅まで来てくださり、主人が馬ゾリでお迎えに行ったこともあります。昭和38年の豪雪の時だったと思います。
前田町会館の建立と増築
昭和32年、高岡駅から徒歩15分の場所に、前田町の親鸞会館が建立されました。会館が建った当初、周りじゅう田んぼで、家はありませんでした。
昭和32年ごろ
当時の前田町会館は、座れば今度は、前後も左右も余裕なく、正座したひざの上にお聖教を置いて、全く身動きできないのです。
一人一人に仏縁を
先生からのお葉書は、500枚を超えています。ちょっとしたものを差し上げた時でも、高森先生はいつも、真実いっぱいのお葉書を下さいました
すべては、南無阿弥陀仏の躍動
智慧と慈悲の南無阿弥陀仏を体得すれば、智慧あるがゆえに生死にとどまらず、獅子のように怖畏なく、真実開顕に突き進む。
親鸞会は大きくなるぞ
「大きくなるに決まっている。阿弥陀如来の本願によらねば、全人類は救われないのだから」
遠大な未来
親鸞会の会員が300名くらいの当時「1万人収容する会館だよ」と構想をいわれました。
実現した大法城
高森顕徹先生と他宗教の建物を1泊2日で回ったのは、昭和30年代のことです。
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滋賀会館建立(公開予定)
岐阜会館建立(公開予定)
東京へ(公開予定)
大阪へ(公開予定)
海外へ(公開予定)
