前田町会館(親鸞会初の会館)

親鸞会初の会館が落成

Hさん

建設中の前田町の会館

前田町の親鸞会館にも、思い出がいっぱいあります。
落慶式の前の日に、6、7人で垣根を作った。男の人はくいを打って、女性は「垣根結び」をしました。横に張った竹を、わら縄でくいに結びつけるんです。

建築工事は、突貫工事でした。壁が塗り立てで、ベタベタでしたので、「気ぃつけてくれ」と言われました。そんな中の落慶式でした。

あっちからもこっちからも寄ってきた人が、
「よかったねぇー、よかったねぇー」
と言うてました。

障子を入れる敷居はできていて、障子戸も用意してあったのですが、最初から人がいっぱいで、敷居の外にも人が座っとって、障子を入れることはなかったと思います。

本堂も人がいっぱいで、膝が触れ合うくらい、ぎゅうぎゅう詰め。今みたいに冷房はありませんから、夏は暑かった。窓を開けて、自然の風を入れました。冬は反対に、熱気であったかかったです。

参詣者が多くなり、会館は何べんか増築されました。隣のお宅との間の道が狭くなって、人が2人、やっと擦れ違えるほど。その道を通って会館に入る時に、隣の敷地に入ってしまうほどでした。でも、心よく協力してくださった。親鸞会の会員さんだったんです。

わずか6畳の控室に

会館の高森顕徹先生の控室は、6畳くらいでしたが、先生にお尋ねしたいことがあると、みんな、そこに行きました。

落慶からだいぶたって、石崎さん(元事務総長)と主人と3人で、汽車に乗って会館に行った時のことです、そのころは、みんなすぐに信心決定できると思っていました。

「よう聞いとるのに、まだ決定できん。ちょこっと先生に、お尋ねせにゃならん」
と、話がまとまり、会館に着くなり、控室にご挨拶に伺うと、仏法の重さをお話しくださいました。先生は私らの気持ちをちゃんと見抜いておられたのです。

「何で分かられたんやろか。やっぱり、先生はただ人ではない」
と、みんなで言いました。
「どうすれば信心決定できるんでしょうか」
と、よくお尋ねしました。

先生は、
「無常と罪悪をといつめ、弥陀の本願、しっかり聞いてください」
と言われました。

病に伏されるご自宅

昭和30何年だったか、先生は、原因不明の腹痛で、ご説法をしばらくお休みになられました。医者から、盲腸だと言われて冷やされたり、温めたりされましたが、どうしても治られん。痛くて随分苦しまれたそうです。昭和21年生まれの長男が、まだ小学校5年のころでした。

お見舞いに伺ったのは、5月ごろでした。4、5人で、城端線から氷見線に乗り換えて。伏木の念仏谷十八番地をお訪ねしたのは、この時が初めてでした。

玄関の戸を開けたら、すぐそこの4畳半に先生は横になって、うなっておられました。相当やつれておられました。寝ておいでる向こうは、トイレと書斎。みんなで泣きました。

お布団は、お母さまのお若いころのメリンスの着物を壊したもので、穴がいっぱい開いたものにツギしてある、そんな布団でした。玄関のすぐそこに休んでおられたので、長居もできず、「お大事になさってください」と申し上げて、お見舞いをお渡しし、すぐにおいとましたのです。
「こんなにご苦労しておられる……。また、ご説法に立たれたら、一生懸命聞こまいけ(聞かせてもらおう)」
とみんなで話しました。

どれだけ苦労をおかけしてきたことか。ご説法中、居眠りしている参詣者に、ポーンとチョーク投げられたこともあった。毎月毎月、ご説法なされても、みんな真剣にならんから。一大事を聞かしていただいているのに、どんなに歯がゆい思いをされたでしょうか。

〝火の中をかき分けて聞け〟と、お釈迦さまも親鸞聖人も蓮如上人もおっしゃっているとおりの、ご教導だったのです。

ご自宅から通りに出る小道を歩く間、今までのことを思い出して、みんな泣き通しでした。
その後、先生は、木元院長(故・木元正二医師)に出会って、全快されました。木元先生には大変感謝され、尊敬しておられました。

弥陀の本願何としても

戸出(高岡市)の菊池頼さん宅で、夜に座談会があると聞き、早速、参詣しました。菊池さんは、弥陀の救いにあわれ、いつも喜びを語っておられる尊い人でした。

戸出の駅を出て真っすぐの所です。特別広いおうちじゃなかったけど、たくさんの方がいつも参詣していて、それぞれ聞きたいことを先生にお尋ねしていました。

ある日、座談会が終わり、夜も9時を回り、先生が2階へ上がられたあと、参詣者で、後生の話をしていました。

「身内の者が病気になって死ぬ間際に、『火の車が迎えにきた』と叫んで死んだ」
とか、あの人はこうなった、ああなったという話をしていた時です。

私は小学校のころから、死に敏感でした。友達と、死んだらどこへ行くのかを、よく話し合っていました。

高森先生からも、八大地獄や、中でもいちばん恐ろしい無間地獄のお話を聞いて、耳の底に残っていました。

その晩も、ほかの人の生々しい体験を聞いているうちに、体が下の方に引き込まれる感じがしてきたんです。恐ろしくて、思わず知らず階段を駆け上がって、先生の休んでおられるお部屋に行きました。

先生は、
「どうしたんですか」
と、動転する私の話を聞いてくださったのです。最後に、
「親鸞聖人のみ教えを、真剣に聞いてください」
とおっしゃって、念仏を称えておられました。そのお姿を見て、
「何としてでも弥陀の本願、聞き抜かせていただかねば」
と思ったのです。

家族にも優しく

いつだったか、同じ村の人が高森顕徹先生を招待することになったんです。でも、その方が急に都合悪くなり、私の家でさせていただくことになりました。8月でした。

当時、長男は中学生くらい。夏休みで家にいたので、一緒に聴聞しました。今でも、
「高森先生のあの時の例え話は、もう忘れんわ」
と言っています。

次女が、
「高校に行きたくない」
と言った時、先生は、
「高校だけは、どうしてでも出ておきなさい」
とアドバイスしてくださいました。娘も先生を、大変尊敬しており、素直に聞いていました。

昭和38年の豪雪

 

関連記事一覧

親鸞会結成以前(富山県編)

親鸞会結成以前(石川県編)

親鸞会結成以前(滋賀県編)

浄土真宗親鸞会
〒939-0395
富山県射水市上野1191
TEL 0766-56-0150
FAX 0766-56-0151
E-mail:info@shinrankai.or.jp
新着記事
青年部発足(昭和38年)
真実の教えを分かりやすいマンガで
夢の図面が現実に