前田町会館(親鸞会初の会館)
前田町会館の建立と増築
日下部浩顧問
建立当時の前田町会館
昭和32年、高岡駅から徒歩15分の場所に、前田町の親鸞会館が建立されました。会館が建った当初、周りじゅう田んぼで、家はありませんでした。
24畳の本堂の正面に御名号をお掛けして、左側にだけ黒板がありました。右側はいろいろな案内が張ってある掲示板でした。
お仏壇に扉はなく、最初はカーテンのような幕だけでした。黒板の下と、お仏壇の前に、それぞれ畳1枚分の移動可能な教壇が置かれ、勤行の時は先生自ら、お仏壇前の教壇上に座られ、導師をつとめてくださいました。
玄関には、左側に高さ1メートルほどの下駄箱があったのですが、すぐにあふれてしまいました。玄関いっぱいに靴を並べても置き切れず、外にも並べざるをえませんでした。他人の靴を踏み越えて、中に入らねばならなかったのです。
それでも、入れた人はいいほうで、横の窓から立ったまま、のぞき込んで聞かれる参詣者も多くありました。雨の日は、傘をさしての聞法でした。
この状況を打開するため、横幅は左右二間ずつ、敷地いっぱいまで増築されました。廊下もなくし、すべて畳にして、一人でも多くの人が座って聞法できるようにしたのです。
後方には広げるだけの土地はなかったのですが、前方には畳1畳分だけ拡張しました。
入り口の右側では、菊池頼さんが受付をしておられました。菊池さんは、ご法礼を納めた人に、小さな紙をくださいました。表には、
「露の身を
嵐の山におきながら
又来ん春と
いうぞはかなき」
とか、
「明日ありと
思う心のあだ桜
夜半に嵐の吹かぬものかは」
といったお歌がガリ版で刷られ、裏側には親鸞会のマークと日付が押されていました。
「少しでも仏縁を深められるように」と、菊池さんが用意されたのだと思います。
芳野の会館(旧・高岡会館)へ移る直前には、人があまりにいっぱいで息苦しくなり、屋根のほうから空気の入れ替えができるように改造されました。まず、天井の中央部を幅2メートル、奥行き3メートルほどくりぬいて吹き抜けにしました。屋根もその部分だけ高くして、換気用の窓を取り付けたのです。
左右に鴨居と敷居がありましたが、大勢の参詣者で、障子戸は一度も使われませんでした。
また、鴨居の横に板を1枚付けて、講師が荷物を置く棚として使われていました。
会館では菊池さんのお宅のように、月に1回、夜の座談会とご法話が開かれました。座談会ではいつも、夜遅くまでお話しくださったと記憶しています。
親鸞会館・正本堂建立に、思い起こされるのは、前田町の会館落慶時のお言葉です。
「マッチ1本でなくなるこの会館で、無量永劫、消滅しない阿弥陀仏の宝を頂くのです。限りある会館で限りない幸福を獲ることが大切なのだ」
その後も法城が建立されるたびに先生は、同様の言葉で、重ねて教えてくださいました。

