前田町会館(親鸞会初の会館)4
昭和32年ごろ
Yさん・Nさん
――高森顕徹先生と出会われたのは、いつごろですか。
Y「昭和32年の末(38歳)でした。隣の島さんというお宅が、高森顕徹先生をご招待されたのです。それまで寺に一度も参ったことのない私でしたが、義理でも行かねばならないかなと思って参詣したのが、最初です。
仏法のことは何も知らなかった私ですが、『この方は、まことのあふれ出たお方や』と感じたことは、ハッキリ覚えています。大きなお声だけでなく、全身からにじみ出るような、まことの信心をお叫びくださっているように感じました。
一緒に参詣した父は、浄土真宗の寺に時々行っていましたが、高森先生のことを、
『こんな町におられるようなお方でないぞ』
と絶賛しておりました。それで私は、てっきり遠くからいらしたのだと思いました。
また、島さん宅で、
『今度は、遠い所へ説法に行くんですよ』
とおっしゃったので、家へ帰ってから、
『あぁ、もう一度お聞きしたい。でも、もうお会いできないかもしれない……』
と、ため息をついていたのです。
ところが、しばらくして、高森先生が伏木の方であることが分かり、前田町(高岡市)に会館ができたという話を聞きました。次の年の1月に、喜んで参詣させていただいたのです」
N「私も昭和32年(38歳)に、高森先生にお会いしました。よく覚えております。ちょうど、姉が、20歳になる娘を亡くした時でしたから。
姉は、
『どこかに、この寂しい心をいやしてくださる方はないか。仏法の話をしてくださる方はおられんか』
と、いろんな人に聞いていたようです。縁あって、川渕をたさん(故人・親鸞学徒)と新とみさん(親鸞学徒)から、高森先生のことを聞き、私にも教えてくれました。
私は9歳のころから、死んだらどこに行くのか、気になって仕方ありませんでした。父に聞くと、
『善いことをしておれば極楽やし、悪いことしとったら地獄やぞ』
と言うので、
『その地獄・極楽を、今ここで見せてほしい』
と言って、困らせたものです。
学校へ行っても、死後のことばかり気にかかり、18歳で県庁に勤めてからも、周りの人に、
『地獄・極楽があんがやぞい(あるんだよ)』
と言って、おかしな目で見られておりました。
結婚して、子供が四人いるころになって、姉から高森先生のことを聞き、高岡駅の反対側に会館があるという話だけで、二、三人に尋ねながら行きました。当時は、会館の周りには、田んぼも残っておりました」
――前田町の会館の様子を教えてください。
N「狭かったー。とにかく、人がいっぱいで入れん。私は子供の面倒で、どうしても、朝9時ごろにしか行けなくて、その時間にはもう、会館の中へ入れませんでした。
玄関に立ちっぱなしか、横手の窓から、『せめてお声だけでも……』と聞いておりました。昼休みに、食事に出掛ける人があると、サッと中へ入り、詰めてもらって何とか席を取っておりました。
座れば今度は、前後も左右も余裕なく、正座したひざの上にお聖教を置いて、全く身動きできないのです。
やがて、増築されましたが、また、すぐにいっぱい。焼け石に水でした」
Y「正本堂の大型映像がたたみ30畳分ですから、前田町の会館よりも大きいと聞いて、『アレー、そんな狭い所にいたんか』と思います。それなら混雑していたのも無理はありません。
父は、日露戦争で足を負傷していたので、身動きできずに困ったようです。
高森先生はいつも、大きなお声で親鸞聖人の教え一つをお話しくださいました」
忍辱の顕正・真言宗の自宅でご説法
――Yさんは、高森先生をご自宅へ招待されたと聞いております。
Y「はい。昭和34年ごろだったと思います。二度、来てくださいました。
昼・夜・朝と説法なされ、100人くらいの人が来られて、座敷はいっぱいでした。
夜はお泊まりになられましたが、
『お風呂にお入りください』
と案内しても、入られないのです。よく、
『戦場で風呂に入っていられない』
とおっしゃった御心かと思います。
実は、私の家は真言宗なのです。仏壇には、大日如来の絵像が掛けてありました。ご説法が終わったあと、若い人が仏壇に手を合わせようとした時、先生が大きなお声で、『手を合わせたらいかん!』
と一喝されたのです。その青年も驚きましたが、私もびっくりしました。
本尊が違うからだと分かって、『弱ったなー』と思いました。早速、同じ真言宗だった吉田さんという人と二人で、高森先生にお願いしまして、『南無阿弥陀仏』の御名号を書いていただきました。
今から思うと、先生は、真言宗のわが家でも、ご説法くださったのです。どれほど、我慢してくださったでしょうか。当時は、参詣者にも、真言宗の仏壇に参ってはいけないと分かっていた人は、ほとんどいなかったように思います。
高岡の木津にある大きな寺でご説法なされた時もそうでした。参詣者はいっぱいでしたが、そこは浄土真宗の寺ではありませんでした」
N「高岡の片原町に不動明王を祭っている寺がありましたが、そこでもご説法があったと思います。砺波のある家では、菩薩やら七福神やら、ありとあらゆる雑縁が部屋中に置いてありましたが、そこでもお話しくださいました。
お釈迦さまの結論の『一向専念無量寿仏』(阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよ)を説かれると、参詣者がガターッと減ったという話を聞きますが、真実をハッキリ言われるまで、随分、忍耐してくださったのだと思います」
――高森先生のご自宅のあった念仏谷十八番地(旧町名)の近くに、お二人ともお住まいですが、行かれたことはありますか。
Y「わが家の庭になっていた柿を持ってお伺いした記憶がありますので、多分、秋だと思います。ある人が私にくれた手紙に、救われた体験が書いてあり、そのことについて、お尋ねに行ったのです。
玄関を入ると、すぐ居間があるお宅に、奥様とお子さんと住んでおられました」
N「私の姉も、4、5回は、行かせていただいたようでした。娘を亡くして、ご相談したいことがいろいろあったようです。そのころは、お宅にお伺いして、何でも質問しており、申し訳ないことでした。
お母さまも一緒におられたのではないかと思います。よく、国鉄(現・JR)の越中国分駅から、お母さまと奥様が二人で汽車に乗って聴聞に行かれるのに、ご一緒させていただきました。私たちにも、気さくに接してくださいました」
――ご縁があって、約50年。聞法を喜ばれる今のお気持ちをお願いします。
Y「真言宗だったわが家に、高森先生は、よくお越しくださいました。
8年前に夫が亡くなり、東京にいる長男夫婦が時々、富山へ帰ってきます。何とかともに仏法を聞かせていただかなければ、先生に申し訳ないと思っております」
N「去年から、背骨を痛めて4カ月入院していましたが、こんなことで寝たきりになってはいけないと思って、同室の患者さんが寝ている間に歩行器でリハビリして、また元気に聞法できるようになりました。これも仏法のおかげです。
高森先生も汗だくでご説法なされ、私たちも汗だくで聞いていた前田町の会館と比べれば、正本堂は極楽浄土みたいなもの。この喜びを、多くの方とともに味わわせていただきたいと思います」
※十八願他力念仏の「研究室」 ……念仏谷18番地
龍谷大学を卒業なされた高森先生は、仏教の学問を究められるため、富山県高岡市の海辺の町・伏木に、わずか5坪(10畳)の「研究室」を建てられた。当時の住所は、念仏谷18番地。そこに10年間、住まわれることとなる。
この小さなお宅が、2000畳の出発点であった。

