前田町会館(親鸞会初の会館)時代
青年部発足
山崎芳郎さん(仮名)

親鸞聖人の教えを正確に伝えることを目的とする『顕正新聞』は、昭和37年6月に発刊された。以来、45年、初めは月一回だったが、現在は月2回、弘宣部が編集出版している。初代編集長の故・深松賢雄最高顧問(当時・本部長)から引き継ぎ、昭和40年から6年間、編集責任者を務めた山崎芳郎さん(仮名・富山県)は、さしずめ、親鸞会初の弘宣部員といえよう。ご法話会場でもカメラを持ち歩き、いつも撮影や取材をしていた山崎さんを、法友たちは親しみを込めて、「ポッポさん」と呼んだ。
──高森先生にお会いしたころの様子を教えてください。
昭和38年の夏でした。友達の知り合いから、
「仏法を聞いてみませんか」
と誘われて、高岡の前田町の会館へバイクで行きました。
当時は、創価学会が猛威を振るっていて、新聞紙上をにぎわしていたころです。私はそれまで、法事で坊さんの話を少し聞いた程度でしたが、浄土真宗の門徒までが日蓮を信じるようになっていいのか、疑問に思っていました。
そこで、誘われたのをきっかけに、自分がまず仏教をよく聞いてみようと思ったのです。
会館は参詣者であふれていて、入れるのだろうかと思ったほどでした。初めて拝見した教誨服で、高森先生は、親鸞聖人のお言葉を前に掲示され、「後生の一大事」から「信心決定」「絶対の幸福」など、私が全く知らなかった聞法の目的と、阿弥陀仏に救われた世界を、大きな声でお説きくださいました。
「これは、最後まで聞かせていただこう」と思って、親鸞会青年部に入れていただいたのです。
──青年部は昭和38年に発足していますので、まさにその年ですね。
前田町の会館では、月1回のご法話のほかに、週2、3回、若い人が夜に集まって、教学勉強会が行われていました。ちょうど、ご法話の時に深松本部長が、
「これから、教学試験が始まります」
と参詣者に発表されたのをよく覚えています。青年部でも、教学に力が入っていたようです。
仕事を終えてから会館に集まり、『真宗聖典』を開いて、大事なご文に線を引いていました。
遅くまで勉強していたので、そのまま泊まって、明くる朝、会館から出勤したこともよくあったんですよ。小さな集まりでしたが、みんなイキイキしていましたねえ。
──40年以上も前から、教学勉強が盛んだったのですね。
親鸞聖人の教えの正しい理解を、高森先生が一貫して望んでおられるからと思います。
当時の会館の控室は、6畳くらいだったでしょうか。夏はテーブル、冬には炬燵が置かれて、ぎゅうぎゅう詰めで2、30人。若い人と年配の方が半々でした。
教学試験も、先生のお部屋で行われていました。先生が監督されて。
このように接せられて、私たちの仏縁を念じてくださったのです。特に仏縁を結んだばかりの私には、仏法を理解するのに、本当にありがたいことでした。
『顕正新聞』の編集を
仏法を聞くようになってから2年たった昭和40年のことです。突然、高森先生が、
「『顕正新聞』の編集をしなさい」
とおっしゃったのです。
どうして私に言われたのか、今でも分かりません。仕事では、カーテンなどのレースを作っていたので、文章とは関係がありませんでした。特別に本をよく読んでいたわけでもありません。
ひょっとしたら、青年部の行事で体験発表をしたことがきっかけになったのか、「親鸞会で、仏教の体系を聞かせていただけた」と叫んだのを聞かれてのことかもしれません。仏縁を結んで間もない私を導かれるために任命してくださったのは、間違いないと思っております。
──『顕正新聞』を実際に、どのように編集しておられたのでしょうか。
初めは、『顕正新聞』の責任者は、深松本部長でした。発刊されてから3年余り、仕事をされながら、作っておられました。
私は全く、新聞制作を習ったことがありませんでしたから、完全に見よう見まねです。それまでの『顕正新聞』を見て、昭和40年の12月15日号から、担当させていただきました。
主文(1面の原稿)や「大喝」は、高森顕徹先生から原稿を頂きました。「論説」(当時は「社説」)は、先生か本部長が書いてくださっていたと思います。「こんなことが知りたい」(当時は「こんなことがききたい」)はもちろん、先生のご執筆です。
毎月15日発行で、その半月くらい前に、原稿をお預かりしました。残りの記事は私が書いて、紙の上で、見出しと文章、写真などを配置して、編集していくのです。
──12月15日号の「編集後記」という欄を見ると、
「今月号よりYY生(山崎さん)、深松編集長に代わり編集を担当。より多くの人々に正しく分かりやすく、この真実を伝えんがため、微力ながら尽くしたい」と書いておられますね。
編集が終わったら、何せ初心者ですから、本部長のおられる職場に出向いて、チェックしていただきました。その時に修正されたところを直して、印刷業者に渡します。
校正は2回ありました。基本的には1人で確認しましたが、先生に見ていただくこともありました。
当時は、多くの親鸞学徒が控室におじゃまして、ご法話が始まる前には「おはようございます」、終わったらまた「失礼します」とごあいさつしていました。その時に、原稿をお預かりしたり、校正をお見せしたりしました。
私たちが気軽に出入りできるようにしてくださっていたのです。今から思えば、失礼なことだったと思います。
──初めて担当された新聞ができ上がってきた時は、どんなお気持ちでしたか。
そりゃあ、うれしかったですよ。「できたー」という感じでね。
同時に、「これでいいのだろうか……」という不安も出てきて、手放しで喜べませんでした。
──締め切りが迫ってくると、大変だったのではないですか。
毎月のことでしょ、仕事もあるし。徹夜で仕上げたことも、よくありました。
──昭和40年の12月15日号を見ますと、1面には、旧・滋賀会館の完成予想図(翌41年竣工)と、どんな会館になるかが書かれています。これは、山崎さんの原稿ですか。
そうです。
岐阜の谷本建設さんが工事を担当していましたので、ご法話会場で、谷本貞三さん(故人)から聞いて書きました。
──最後のページには、前月の報恩講の様子と、劇の一コマの写真が載っています。
当時は青年部を中心に、盛んに仏教劇が行われていました。そういった写真はほとんど、私が撮っています。ほかにやってくれる人はいませんでしたからね。
当時はカメラが小さくて、標準レンズしかついていなかった。前田町の会館の演壇で行われている劇を、近くまで迫って撮ろうにも、立錐の余地もない参詣者ですから、割り込めないのです。冬でも熱気がムンムン、通路なんてありませんし……。
会館の左後ろの隅に、当時はスピーカーが置いてあって、そこしか撮影スポットはありませんでした。そこで、後ろからでもきれいに撮影できるように、ミノルタの一眼レフを買って、望遠レンズで撮影しました。
──「編集後記」で確認しますと、"YY"と署名されている『顕正新聞』は、昭和40年12月から、46年10月までです。 先達の皆さんの苦労があったからこそ、現在の『顕正新聞』もあるのだと思います。
6年間もしていたんですよねえ……。アッという間でした。
法話会場でも、いつもカメラを持って、シャッターチャンスを狙っていたので、私が『顕正新聞』の記者だということは、参詣者にはすぐに分かりました。青年部の法友からは、「ポッポさん」と呼ばれていたんですよ。"記者"と"汽車"をかけてね。
このようなご縁を頂いたからこそ、今日の仏縁があります。
高森顕徹先生に改めて、感謝を申し上げたいと思います。
