私と50周年 3
■ 浄土真宗親鸞会結成50周年
戦後の焦土から
生きる意味を求めて
岐阜県 Fさん
「あのころはね、お国のため、天皇のために死ぬことが最高の名誉だったんです」
小、中学と、軍国教育を受けてきた。行事のたびに校長が、白手袋で厳かに「教育勅語」を読み上げる。「我が臣民よく忠によく孝に……」。忠義はすべてに優先され、天皇という言葉が出ただけで、直立不動の姿勢を取った。
授業も軍事訓練が中心となり、4キロ以上もある三八銃を担ぎ、何度も田んぼを走らされた。
将校として戦場に露命を散らし、靖国の神となってあがめられる。これぞ生きる目的と信じていた。
中学卒業後、迷わず海軍予科練航空隊に入隊した。朝食前の1万メートル競走や、腕立て1時間など当たり前。「飛練地獄」と呼ばれた飛行練習生時代は、移動はすべて駆け足で、ついてこられない者は遠慮なしにバットでぶたれた。ミスがあれば連帯責任で全員バット。規律を破った者には、何十発ものバットの制裁があった。尻から大腿部にかけ、あざで真っ黒になっていない者はいなかった。
戦況の悪化につれ、Fさんの部隊でも特攻隊が編成される。「きみたちの命を預けてくれ」。上官の命令に死を覚悟した。怖いと思う余裕もなかった。「一機一艦」を合言葉に、翌日から敵艦に体当たりする猛特訓が始まった。
出撃を一月後に控えた昭和20年8月15日、日本が降伏したことをラジオで知る。その夜は、悔しさと死に損ねた恥ずかしさで男泣きに泣いた。
鹿児島の出水基地から、汽車で郷里へ帰る道中、どこもかしこも焼け野原となった祖国に言葉を失った。
「ここまでたたきのめされていたとは……」
岐阜も空襲に遭い、極度の食糧難、物資不足にあえいでいた。息つく暇もなく、ただ生活に追われた。
私の存在価値は
「すべてをささげたあの戦争は何だったのか?平等やら民主主義やら、天皇崇拝の世の中は手のひらを返したように変わり、何を信じていいのか……。復員してしばらくは魂の抜け殻で、自分の存在価値は何か、生きるとはどういうことか、どうしても知りたくなったのです」
昭和30年代、岐阜市のある寺でのこと。
「人は苦しむために生まれたのでもなければ生きているのでもない。さりとて金や名誉のためでもない。苦から苦への綱渡りである迷いの六道を出て、絶対の幸福になるためである。それは人間に生まれなければ絶対に果たせないことなのだ」
力強い断言が心を揺さぶる。高森顕徹先生との出会いだった。一人一人に、人間に生まれてきた重い使命がある。それを果たすために生きるのだと教えられた。人間の真実をえぐり出し、苦悩の根元を無明の闇と説き示し、弥陀の本願力によって、一念でそれを照破する、明らかな親鸞聖人のみ教えに、「そうだったのか、そうだったのか」、目からウロコの連続だった。
「あと一月、戦争が長引いていたら、特攻隊で死んでいた身です。高森先生にお会いし、後生の一大事を知った時、危ないところであったと身の凍る思いがしました。同時に、ああこれが真実だ、遇えてよかったと思わずにおれなかったのです。『真実を知る者は幸福なり。真実を求むる者はなお幸福なり。真実を獲得する者は最も幸福なり』の聖語を、しみじみと今、かみしめています」
Fさんは80を超えた今もバイタリティ一杯、岐阜の法友を励まし、共に浄土に向かっている。
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