私と50周年 5
■ 浄土真宗親鸞会結成50周年
すし詰めでも熱心な聞法
芳野の会館とともに
駆け抜けた昭和50年代
「満てらん火をも過ぎゆきて
仏法は聞くべし」
富山県 Yさん
新湊(現・射水市)の真宗の家に生まれた私は、親鸞会が結成されて間もない昭和37年、高岡市の仏具店に嫁ぎました。そこは、両親と小姑9人が同居する大家族で、毎日もめごとが絶えませんでした。
仏具を扱う者として仏法を知らなければ、という思いと、いさかいの中で安らぎを求める心も働いたのか、夜にそっと家を抜け出しては、近くの寺へ話を聞きに行くようになりました。
やがて、昭和45年に店の従業員になった親鸞会会員に誘われ、前田町の親鸞会館に出掛けたのです。
高森顕徹先生の説法をお聞きして、びっくりしました。今まで、“念仏さえ称えていれば、死んだら極楽”としか聞きません。ところが先生は、
「まず世間にいま流布して旨と勧むるところの念仏と申すは、ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称うれば皆助かるべきように思えり、それはおおきに覚束なきことなり」
「世の中に人のあまねく心得おきたるとおりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、極楽に往生すべきように思いはんべり。それは大に覚束なきことなり」(御文章)
と、お聖教の根拠を次々と挙げられ、念仏称えてではない、信心一つで生きている現在助かるのが親鸞聖人の教えだとおっしゃる。そして、救われる前と後とはどう変わるのか、詳しく説かれたのです。
死んでみなければ極楽に往けるかどうか分からぬようでは、当てになりません。
“高森先生のご説法こそ、本当の浄土真宗だ”と思い、深くうなずきながら聞いていたのを、ハッキリ覚えています。
もっとお聞きしたいと思いましたが、嫁の立場で、なかなか自由に出歩けません。ある日、悩みを講師に打ち明けると、
「高森先生にご相談しましょう」
と言われ、控室へ案内していただきました。先生は、
「苦しみの中に身を置いて、そこから聴聞に出たらいいですよ」
と教えてくださいました。
おはがきも頂きました。
「合掌
忍はヤイバの下の心とかきます。どんな無理難題にもそのバックには、阿弥陀仏の慈眼のあることをみつめて耐えしのび、無碍の一道まで求め抜いて下さいよ。御主人の為にも」
聞法を始めたばかりの私にも、このようにご教導くださったのです。
教えていただいたとおり、大家族の複雑な人間関係の中で、聞法を続けました。そのうち、姑のほうから、
「店に出なくていい」
と言われました。それからは土日のご縁にはすべて、参詣できるようになったのです。その後、主人(故人)も仏縁を結び、実家の母(故人)も聞くようになりました。
秘事の信心崩壊
母は初め、高森先生のご説法に困惑したようでした。土蔵秘事(※)の信者だったからです。
信心を頂くには、秘密の儀式を受けねばならない。それも1度だけではダメで、何度も受けて、だんだんと位が上がっていき、弥陀同体のさとりが開けるというのが、彼らの言い分です。全く記憶していませんが、私も3歳で儀式を受けたことを、母から聞きました。
そんな母も、高森先生から、
「弥陀の救いは、平生の一念で完成する。それには、聴聞に極まる、です」
と弥陀の願心を繰り返しお教えいただき、土蔵秘事の信心はおかしいと気づいたのです。
「高森先生に直接、お礼を申し上げたい」
と言うようになり、富山湾のズワイガニなどを持って、ご自宅に伺ったこともありました。
その時も、先生はすぐに、おはがきを下さいました。
「合掌
人の家は横から這込る
アリの家は上より這込る
ハチの家は下より這込る
信心の家には聞より這込ります。
結構な品、拝受しました」
儀式では助からない。「仏法は聴聞に極まる」だと、重ねて教えてくださったのです。
父は仏法を聞いたことがありませんでしたが、夫に誘われ、しぶしぶ、高森先生のご法話に参詣しました。ところが「蓮華の五徳(※)」のご説法に、父は一座でほれ込んでしまい、真剣に聞くようになったのです。
昭和48年、親鸞聖人ご生誕800年には、4人で親鸞学徒として参詣させていただいたんですよ。
遷仏会から満堂に
翌49年に、前田町から、芳野の大邸宅へ親鸞会館が移転しました。
芳野の会館へ行ってみると大きな家で、それまでの会館とは別世界です。これならゆったり座れると思いましたが、遷仏会から早くも満堂でした。席を取ったら、なるべく立たないようにしたのですよ。いったん離れると、すし詰め状態ですから、自分の席へ戻れなくなるのです。女性が、人をかき分けて歩くわけにいかないでしょ。
降誕会の時などは、お昼に席を立ったら、後から来た人が押し寄せて、席が埋まってしまうこともありました。午後はしかたなく、玄関の下足棚に挟まれて、すのこの上で聞いたものです。
晴れている時はいいのですが、雨風の日には、会館の戸を閉め切ります。すると、酸素不足になってしまうので、休憩時間に、天井に張られたホースから、酸素が噴き出してきました。屋外にボンベが置いてあって、係の人がバルブを開くと、酸素が送られてくるのです。
冷房もないので、夏場は暑くて暑くて。夜になったら皆、銭湯に出掛けていきましたが、私はぐったりしてしまって、お風呂に入る元気もありません。壁に取り付けられた扇風機が休憩時間に回っていましたが、そんなものでしのげる熱気ではありませんでした。
高森先生は、そんな酷暑でも、教誨服で壇上にお立ちくださいました。説かれる方も汗だくで、本当に申し訳ないことでした。
昭和52年からは、バスやトラックが次々に購入され、各地で開かれた高森先生ご法話の備品の運搬や参詣者の送迎に、フル活用されました。54年には、会館前の田んぼが駐車場として取得されました。そこに聴聞バスがずらっと並んだ光景は、親鸞会ならでは、でしたね。
翌年、増え続ける参詣者に対応するため、本堂が手前に増築されました。それでも間に合わず、59年には駐車場の一角に、天井の高い建物が造られ、ご法話の日は第2聴聞会場、平日はバス車庫として使用されました。せっかく遠方から来られても、本堂に入れないと、第2会場に座らなければなりません。14インチほどの小さなテレビで皆さん、真剣に聴聞されていたのですよ。
50年変わらぬご説法
私が親鸞会の職員になりましたのは、昭和59年です。本当の親鸞聖人の教えを求める人々が、一層、会館に押し寄せるようになりました。
60年には、プレハブの第3会場も造られました。物置のような狭い場所で、大変だったと思います。来られても入れないと、帰ってしまう人もありました。
高森先生は、
「新本部建立が1日でも遅れれば、それだけ、せっかくのご縁を無にしてしまわれる人があるのだ。1日も早く完成せねばならない」
と、御心を痛めておられたと聞いています。
* *
昭和63年、小杉(現・射水市)に、現在の本館が完成しました。近代的な設備が充実し、冷暖房一つとっても、快適に聴聞に集中できるようになりました。
同じ年の5月、「高岡会館(芳野の会館のこと)さよなら法要」が行われた時は、そこで聞法した日々が思い出され、感無量でした。
建物はガラリと変わりましたが、高森先生のご説法は50年間、少しも変わっておられません。常に縦の線と横の線をかかれて、信前信後、真仮の水際の一念を明らかにしてこられました。そして、真実の世界に出るには、「聴聞に極まる」と勧め続けておられます。
本当の親鸞聖人の教えに遇うことができ、親鸞会の一員として人生を歩めるのは、私の何よりの誇りです。
※土蔵秘事……親鸞聖人の教えと異なった信心(異安心)の1つ。
※蓮華の五徳……弥陀から賜る真実信心の特徴を、蓮の花の5つの特徴で表された教え。
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