私と50周年 10
■ 浄土真宗親鸞会結成50周年
原爆投下のあの日は
どんな言葉でも語れない
広島県 Sさん
核に散った幾十万の命を背に
ただひたすら大悲を伝える
昭和20年8月6日月曜日。それはいつもと変わらぬ朝だった。B29(※)は連日、本土を爆撃していたが、広島はなぜか空襲を免れ、どこかのどかな空気さえ流れていた。“その瞬間”が来るまでは──。
吉島町(現・広島市)にある会社に勤めていたSさん(当時20歳)は、いつもどおり8時に出勤し、同僚たちと朗らかに朝の挨拶を交わしていた。
「さあ今週も頑張ろう!」
課長の朝礼が終わり、8時半の仕事開始に間に合うよう、机で墨をすっていた時である。何万ものカメラのストロボが一斉にたかれたような閃光と、百雷のような爆音、窓ガラスがいっぺんに砕け、辺りは一瞬、真っ暗になった。反射的に机の下に隠れると、ゴォーッとまるで地の底がうなるような轟音とともに、周りじゅうの物がなぎ倒された。
「大丈夫か!」
上司から腕を揺り動かされて我に返ると、部屋じゅうが引っ繰り返されたように散乱している。外の様子を見に行った上司が、帰るなり深刻な面持ちで言った。「外に出れば驚くだろうが、落ち着いて防空壕へ行きなさい」
朝なのになぜか夕暮れのように薄暗い。恐る恐る外へ出て声を失った……。
“広島”が消えていた。
そこで見た現世と思えぬ惨状を、つぶさに書くのは控えたい。ただ爆発時、何が起きたかを簡単に書くにとどめる。
爆発点の温度はセ氏100万度を超え、約10秒間、直径280メートルの火球ができ、爆心地付近の地表温度は4000度に達した。さらに爆発点は数十万気圧という超高圧で衝撃波が生じ、その後を追って音速を超える秒速500メートルの熱風が地表を吹き抜けた。その時、爆心地を中心に、一時、真空に近い状態が発生したという。
35万の老若男女が巨大な溶鉱炉に入ったようなものである。家族が、同僚が、恩師が焼かれ、たたきつけられ、性別も不明な、黒く膨れ上がった異形の生き物と化したさまは、どんな形容も及ばない。
その夜、市街地はずっと燃え続け、空を真っ赤に焦がしていた。急ごしらえの救護所には、何千という被爆者がうずくまりただ死を待っている。「熱いよ、熱いよ」「水をくれ」。膿血の異臭と呻きの中で、飲まず食わずで手当てに駆け回ったが焼け石に水である。廃虚の空に、上弦の月が1つかかっていた。
「アメリカのばかやろう!」思わずそう叫んでいた。
被爆者を置いて帰るに帰れず、何日も着た切りで看護に当たる。戦争が終わり、やっと実家へ帰ると、途端に40度の高熱が20日ほど続いた。残留放射能による原爆症だった。
どこで聞いてきたのか、母のHさんが、柿のシブが効くと言い、嫌がるSさんに無理やり飲ませ続けた。すると本当に熱は下がり、死の淵から生還できた。
「この命は母の看病あればこそ。だから昭和57年、高森先生と出会った時、真っ先に聞かせたいと思ったのも母でした」
2年後、広島での高森先生のご法話にHさんと参詣。強信な母は、「今まで寺で聞いてきた話は全部だめだった。この教えが真実じゃった」と涙を流した。
10年前、Hさんが亡くなる時、周囲が驚くような声で、「高森先生ありがとうございました。ありがとうございました」と、息の切れるまで叫び続けたという。やっと恩返しができたとSさんは涙があふれた。
■
戦後の著しい復興で、市内の風景は、あの「光景」がまるで「なかった」ように淡々と流れていく。だがそのアスファルト下には、おびただしい白骨が眠っている。その物言わぬ声が聞こえるたび、なぜ生き永らえたか、その意味を問わずにおれなかった。
親鸞学徒の生きる道は、聖人が常に優先された「大悲伝普化 真成報仏恩」(弥陀の大悲を伝える以上の仏恩報謝はない)と知らされてより、助けてやれなかった同朋の無念に背中を押されるように、県内はもとより、熊本、長崎、宮崎、山形にも赴いた。
「75年間草木は生えないといわれた広島も、今は花が咲いています。この逆謗の屍(迷いの心)に信楽(他力の信心)の花を咲かせる、それが私のたった1つの願いです」
※B29……アメリカが第2次大戦中に使用した長距離大型爆撃機。
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