私と50周年 13
■ 浄土真宗親鸞会結成50周年
夜を徹した御示談
あの情熱、能登に再び
石川県 冨田幸吉さん・敏子さん(仮名)
三重廃立こそ浄土真宗
水際立った教えに心躍る
冨田さんの話によれば、御示談は月に1、2度、各家持ち回りで開かれた。その日は夕食を早めに済ませ、お座を勤める家に、近所の人がぞろぞろと集まってくる。
いろりに幾重も人の輪ができ、その家の主人が口火を切る。“私は法義をこう味わっている”と領解を語ると、参加者も順々に話していく。質問が出れば、同行を中心に納得いくまで語り合う。
幸吉さんの家でもよく行われた。「子供だったので、内容までは分かりませんでしたが、その場の真剣な空気は覚えています」と語る。
「母は『ラジオなんか聴いておったら、娑婆が極楽になっていかん』と言うほど、ひたすら信仰を求めた人でした。だから御示談の途中、私が隅で寝ていたら、皆が帰ったあと、随分しかられたものです」
報恩講の大逮夜には、近郷の有名な同行が皆集まり、村中総出で信心を語り合った。「同行はどんな質問にもスラスラ答えて、子供心ながら、すごいなあと見とれていました」と、敏子さんは言う。
御示談は夜更けから明け方まで続けられ、途中で帰る人はほとんどなかった。「宿善到来、宿善開発といった言葉もよく聞きました。信心は命を懸けて求めるもの、そういう雰囲気がありました」
だが2人の知る、かつての御示談の風景は、今はどこにも見られない。「悲しいことです」と肩を落とす幸吉さんは、この急激な変化は、戦争の影響もあると言う。
「私たちの世代は、軍国教育で神信心をたたき込まれたんです。神社の前では最敬礼、戦死すれば護国の神ですからね。それに真っ向から反する後生の一大事、一向専念無量寿仏のみ教えは、戦争が激しくなるにつれ、だれも説かなくなったのです」
いったん曲がったものは、戦後も容易に正されなかった。後生の一大事を説かぬ真宗は、目的を見失い、立ちどころに失速する。同行たちも次第に亡くなり、御示談自体、立ち枯れのように消えていった。
真宗王国・能登でさえ、戦後はまさに聞法心の“焼け野原”と化していた。だが再びこの地に、弥陀の法水の潤う時が来たのである。
昭和60年、能登で布教開発が本格的に始まった。多数の親鸞会講師、親鸞会の青年学徒が、一村一村、有縁の人を求めて歩き回る。そんな中、敏子さんが62年、柳田村(現・能登町)山村開発センターで開かれた、親鸞会の講師の講演会に参詣した。
「『御文章』にある『無明業障の恐ろしき病』という心の病を聞かせていただき、何と分かりやすいお話かと、いっぺんでほれ込みました」
翌年、輪島市での高森顕徹先生の法話に、幸吉さんと一緒に参詣。三重廃立(さんじゅうはいりゅう)(※)の厳しい説法に幸吉さんは驚いた。
「後生の一大事を説く浄土真宗は、こんなにも厳しい、水際立った教えなのかと、目の覚める思いでした」。かつて頻繁に開かれていた御示談の、あの真剣な空気の意味が、やっと分かった気がした。
「最近の葬儀では決まって『故人は、お浄土へ往かれました』と話されます。三重廃立どころか、だれでもかれでも極楽へ往くように教えている。真剣に求める人がいなくなるのも当然でしょう」
ある日、寺の報恩講に来た有名な僧侶が、「聖人さまの教えは難しいので、今日は良寛の話をします」と言ったのには愕然とした。
「これでは浄土真宗は滅びる」。そう思うとじっとしておれず、高森顕徹先生の法話を親戚や知人に勧めずにおれなくなった。
1人でも多くの人に聞いてもらいたい、8人乗りワゴン車を購入し、高森顕徹先生の法話に駆けつけた。地元での聞法にもワゴン車は大活躍だった。幸吉さんは平成4年、能登の支部長に任命される。その2年後、敏子さんが副支部長に。8年には真実開顕賞を受賞。約350首のご和讃を暗記していた、教学熱心な敏子さんは、大講師試験にも合格している。65歳の快挙だった。
同朋の里で、信心の沙汰がなされているのを見るたび、冨田さん夫妻に遠い日の思い出が甦る。「この情熱を、再び能登に見るまでは、何が何でも……」。脈々と流れる能登の門徒の熱い血が、幸吉さんの胸の奥に燃えている。
※三重廃立……内外廃立(一切の仏教以外の宗教を捨てて仏教を信じよ)、聖浄廃立(聖道門を捨てて浄土門に入れ)、真仮廃立(浄土他流を捨てて真宗に入れ)の3つを指す。親鸞聖人の明示なされた三重廃立に違背しては、後生の一大事は絶対に解決しない。
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